映画「奇跡」

COLUMN/コラム

この「子供の映画」で「大人の映画」の呼吸を支えているのは、少年少女である 蓮實重彦

   完璧な「子供の映画」というものは、映画の歴史に存在していない。子供ほど完璧さからは遠い被写体も想像しがたいのだから、それはあからさまな語義矛盾だといってもよい。だが、同時に、優れた「子供の映画」の大半は「大人の映画」として成立しているからでもある。清水宏やトリュフォーやビクトル・エリセはいうまでもなく、ロッセリーニの『ドイツ零年』(1948)にせよ、ブニュエルの『忘れられた人々』(1950)にせよ、あるいはロブ・ライナーの『スタンド・バイ・ミー』(1986)でさえ、監督が「大人の映画」の名手だからこそ撮れた「子供の映画」にほかならない。
   その点については、『誰も知らない』(2004)で「子供の映画」の名手と呼ばれることになる是枝裕和監督も例外でない。確かに、処女作『幻の光』(1995)の凝ったキャメラワークを自粛することを、「子供の映画」は映画作家に要請しているかに見える。にもかかわらず、松竹芸能の少年お笑いコンビ「まえだまえだ」として知られている―らしい、としか個人的には書けないのだが―航基と旺志郎の前田兄弟を主演に迎えた彼の新作『奇跡』(2011)には、思わず目を見はるしかない「大人の映画」としての完璧な瞬間がいたるところに息づいている。
   例えば、夕暮れ時に自宅を目ざす長男の航一(前田航基)を人気のない路面電車――ことによったらバスかも知れない――の窓ぎわにすわらせ、車外の光景を視線で追うその横顔にじっとキャメラを向けるショットの素晴らしさには、はっと胸をつかれる思いがする。この少年が、無言のアップ――実際には、クローズアップではないのだが――にたえる豊かな寡黙さにおさまっているからだ。ものいわぬ少年は、両親の離婚で父親に引き取られて離れて暮らす弟の龍之介(前田旺志郎)の身の上を案じているのだろうか。だが、そんな心理的な解釈をこばむかのように、航一は路面電車の孤独な乗客という「大人」のイメージにぴたりとおさまってみせる。黒々とした車体を俯瞰するロングショットの挿入もみごとなものだし、そのちっぽけな路面電車が遥かかなたの夕暮れの繁華街へと遠ざかって行く光景もほぼ完璧といってよい。だが、その種の完璧さは、はたして「子供の映画」にふさわしいものなのだろうか。それとも、それは、そんな瞬間をさりげなく撮ってみせる是枝裕和がまぎれもない「大人の映画」の監督だと証明する贅沢きわまりない細部なのだろうか。いずれにせよ、見ている者は、「大人の映画」の呼吸をしたたかに支えてみせる前田航基の役者としての鮮やかな生の持続と、そんな少年を被写体としてキャメラを向けることの僥倖に心踊らせている監督の生の持続とが奇跡的に遭遇するこの場面を、ほぼ完璧な瞬間として受け止める。【続く】

~「群像」7月号より一部抜粋~

「群像」HP